キム・ヨナは何をしたいのか

YouTube浅田真央を…?キム・ヨナ爆笑!韓国TV番組で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090428-00000032-scn-spo



キム・ヨナさん、2009年3月14日、韓国SBSのインタビューで「競争相手の選手に試合直前の練習を妨害された」と話した。

YouTube「キムヨナ爆笑!韓国TVで真央中傷コント」

これって、世界に流れていいんでしょうか・・・・

これで世界規模での評価がガタ落ちですよ。

キム・ヨナさん笑われるだけでは、

出演者は明らかに浅田真央のことをバカにしていて、キム・ヨナはそれを大笑いしている。

なるほど、不用意な行動・言動は、マスコミや世論の格好の餌食となる、

言えてます・・・

しかし、

消化不良を起こしそうな話題ですね。



YouTube  キムヨナ爆笑!韓国TVで浅田真央中傷コント
http://www.youtube.com/watch?v=vU96TH0urts

YouTube キムヨナ「日本人選手に試合前練習を妨害された」続編
http://www.youtube.com/watch?v=vdQAdMV7i8A

YouTube なかにし礼 「キムヨナに冷めてきた」
http://www.youtube.com/watch?v=WwR2zSdrfAM



4月28日9時8分配信 サーチナ

 韓国女子フィギュアスケート選手のキム・ヨナが韓国のバラエティ番組に出演した際の動画がユーチューブ(YouTube)に掲載され、物議をかもしているようだ。掲載後1日で約1万回の再生、100件以上のコメントがついている。

 映像は、キム・ヨナが4月25日に出演した韓国のバラエティ番組を編集し、日本語字幕と解説を加えたもので、再生時間は約3分。番組の中でキム・ヨナは、出演者たちとスケートの話題で盛り上がっている様子で、その中では出演者が「アントニオ猪木」や「浅田真央」の名前を連呼している。また、出演者が浅田真央の名前を言い間違えた際、他の出演者と一緒に笑っているシーンもある。

 動画の投稿者は「キムヨナ爆笑!韓国TVで真央中傷コント」というタイトルをつけ、解説の中でも「出演者は明らかに浅田真央のことをバカにしていて、キム・ヨナはそれを大笑いしている。先日の練習妨害疑惑も含めて、スポーツ選手として非常に疑問」といった観点から説明している。この動画に対してつけられた100件以上のコメントも、そのほとんどがキム・ヨナ自身や出演者、そして番組自体を批判する内容で占められていた。

 この動画は投稿者によって編集されたものであり、そこから全てを判断することは危険である。しかし、いずれにせよスケートリンク外の不用意な行動・言動は、マスコミや世論の格好の餌食となる。日本選手いじめと取られるような一連の行動が、キム・ヨナ自身が意図したものかどうかという議論は置いておいて、ぜひ今後もリンク上で浅田真央らと名勝負を繰り広げてほしい。(編集担当:柳川俊之)
参照記事http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090428-00000032-scn-spo




Wikipedia より

浅田真央

浅田 真央(あさだ まお、ラテン文字Mao Asada、1990年9月25日[3] - )は、日本のフィギュアスケート選手(女子シングル)。2008年世界選手権優勝、2008年四大陸選手権優勝、GPファイナル優勝2回。姉は同じくフィギュアスケート選手の浅田舞


人物

愛知県名古屋市生まれ。名古屋市立高針小学校、名古屋市立高針台中学校、中京大学附属中京高等学校卒業。中京大学体育学部に在学中。名前の真央は、父親が女優の大地真央のファンであったことに由来する。

尊敬しているフィギュアスケート選手は伊藤みどり。かつては伊藤の衣装を着用して競技に臨んだこともあり、「みどりさんの衣装を着るといつも調子がいい」と語っていた[6]。長野オリンピック金メダリストのタラ・リピンスキーにも憧れの言葉を寄せており[7]、リピンスキーの演技を見て自身もオリンピックに出たいと思うようになったという。趣味はジグソーパズルとレゴ制作。



技術・演技

ジャンプには定評があり、アクセルを含む6種類の3回転ジャンプを競技会で用いている。

3回転アクセルは小学生のうちから挑んでおり、2003年の中部ブロック大会(ノービスA)では3回転アクセル-2回転トウループのコンビネーションに成功した[11]。2008年のグランプリファイナルでは、フリースケーティング(フリー)で女子選手として初めて3回転アクセルを2度成功させた[12]。ショートプログラムでも3回転アクセルに成功したことがある[13][14]。3回転-3回転のコンビネーションジャンプも得意としている。2007年グランプリファイナルのフリーでは、2種類の3-3回転に成功した(3回転フリップ-3回転ループ、3回転フリップ-3回転トウループ)。

一方で、あまり難易度が高くないとされている3回転サルコウを苦手とし、2008-2009シーズンまで長い間プログラムに取り入れていなかった[15]。また、アウトサイドエッジで踏み切らなければいけないルッツはインサイドエッジからの踏み切る癖があり、2007-2008シーズンより厳格化されたルールによりエラーエッジ判定を受けていた。同シーズン終了後に矯正に取り組み、2008-2009シーズンのNHK杯など、エラーエッジと判定されない3回転ルッツも見られるようになった。

これから挑戦してみたい技として4回転ジャンプを掲げている。2006年世界ジュニア選手権では直前まで4回転ループを取り入れることを検討していたが、結局見送っている。一時は4回転サルコウも跳んでいたという。

柔軟性が高く、スピンやスパイラルシークエンスのポジションが多彩である。スピンは軸の安定性にも定評がある。かつては片手ビールマンスピンをしていたが[3]、レベル認定を受けにくいことなどを理由に2007年世界選手権以降は取り入れなくなった。

2007-2008シーズンにタチアナ・タラソワの指導を受けてからステップ技術が飛躍的に向上し、その難易度の高さや高い芸術性が世界中のフィギュア関係者やテレビ解説者から絶賛された[要出典]。2009年世界フィギュアスケート国別対抗戦のSPにおいて、サーキュラーステップシークエンスでレベル4を獲得した。



愛犬

愛犬は、2005年世界ジュニア選手権で優勝した際に買ってもらったトイ・プードルの「エアロ」。名前はネスレの菓子ブランド名AERO(エアロ)に由来し、同製品のイメージキャラにも選ばれた。2007年のジャパンスーパーチャレンジではエアロを抱いて滑った[20]。大の犬好きでありながら犬アレルギーでもある[21]。2007年にはエアロが「ティアラ」と「小町」を出産した。前者は浅田が、後者は姉の舞が命名した



天才少女

5歳の時、姉の舞と共にスケートリンクに遊びに行き、スケートと出会う。舞と共に門奈裕子コーチが教える名東フィギュアスケートクラブに入会。当時、同クラブには安藤美姫も所属していた。3歳から9歳まではバレエのレッスンも受けていた[22]。

2000-2001シーズンからグランプリ東海クラブに所属し、山田満知子樋口美穂子両コーチに師事[2]。小学6年生の時に特例で出場した全日本選手権で不完全ながら3回転-3回転-3回転のコンビネーションジャンプ(3回転フリップ-3回転ループ-3回転トウループ)を跳び[23][2]、「天才少女」と呼ばれた。

全日本ノービス選手権では、2000-2001シーズンから2001-2002シーズンまでBクラスで、2002-2003シーズンから2003-2004シーズンまでAクラスで、それぞれ2連覇を達成した。


バンクーバーへ向かって

2008年6月、タチアナ・タラソワに師事することを発表した。7月からスポンサー企業であるウィダーのサポートにより専属のトレーナーと管理栄養士がつくことになった[26]。2008-2009シーズンの初戦、エリック・ボンパール杯は2位。NHK杯ではフリーで2度の3回転アクセルに挑戦。2度目が回転不足と判定されたものの、他の出場選手に大差をつけて優勝した。グランプリファイナルで、国際大会では女子史上初となる2度の3回転アクセルに成功、3季ぶり2度目の優勝を果たした。全日本選手権は3連覇を達成。世界選手権では、SPで3回転フリップ-3回転ループが認定される一方、3回転ルッツが2回転になって出遅れた。フリーは再び2度の3回転アクセルに挑んだが、転倒や小さなミスが重なり、総合4位でシニア国際大会では初めて表彰台落ちを経験した。このシーズンはジャンプの回転不足が厳しく判定される傾向にあったため、3回転-3回転が成功と見なされないことが多く苦心した[15]。世界フィギュアスケート国別対抗戦2009ではショートプログラムで3回転アクセルのコンビネーションに成功し、フリーとの合計得点が201.87点[27]を記録し、国際大会で自身初の200点超えを達成し、女子シングル1位となった。



テレビ

TBS系『学校へ行こう!MAX』2005年7月12日放送(「ニッポンの世界にはばたく学生」のコーナーに出演)
フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげでした』2008年5月8日放送(「新・食わず嫌い王決定戦」、対戦相手は松本潤
日本テレビ系『24時間テレビ』2008年8月30日放送(アイスショー「THE ICE」で義手のヴァイオリン少女が演奏する「虹の彼方に」に乗せて演技する模様が放送された)
テレビ朝日系『ドラえもん秋の1時間スペシャル』2008年10月24日放送(本人役でアフレコ出演)




キム・ヨナ

キム・ヨナ、1990年9月5日[3] - )は、大韓民国フィギュアスケート選手(女子シングル)。2009年世界選手権優勝。2009年四大陸選手権優勝。2006年、2007年ISUグランプリファイナル優勝。パーソナルベストはいずれもISUジャッジングシステムにおける女子シングル歴代最高得点。


人物

1990年9月5日、富川市で生まれる。韓国のフィギュアスケート史上、初めてISUフィギュアスケート選手権を制した(2006年世界ジュニア選手権)選手で、母国では「国民の妹」、「フィギュアの女王(フィギュア・クイーン)」と呼ばれている、「フィギュアの妖精」と呼ばれている。カトリック教徒で、ステラという洗礼名を持つ。2009年3月より高麗大学校に在籍。

家族は両親と姉。金が中学1年生になるまで経済的支援が受けられなかったため、費用は全て両親が負担したという。ジュニアグランプリで優勝しても経済的支援はなく、基準値の20倍のホルムアルデヒドが検出された泰陵選手村スケートリンクで訓練せざるを得なかったという。母は金がスケートを始めてからというもの自分の時間を犠牲にし、午前9時から翌日午前1時まで一日16時間もの練習に付き合った。練習の前後には車中で英語を教えながら送り迎えをし、マッサージもしたという。同時に、子どもにフィギュアスケートを習わせている母親たちの間では鬼コーチとして有名で、母娘の間は確執と和解の繰り返しだったという。

ジュニア時代から競ってきた浅田真央の存在が良いモチベーションになっているという。

韓国のフィギュアスケートを振興するため、後輩の強化・育成活動や、賞金等の寄付をしている。他にも、ボランティア活動や、貧しい子供達への寄付や、チャリティアイスショーなども行っている。金の活躍により韓国ではフィギュアスケートがブームとなった。劣悪だった韓国フィギュアのインフラも改善され始め、韓国各地にアイスリンクの建設予定があるほか、金の故郷である軍浦市では1,500億ウォンをかけて「キム・ヨナアイスリンク」を建設する予定だという。国際大会の度に韓国から多くのファンが競技場に来て大声援を送っており、金もファンの応援が「大きな力になった」「本当に感謝している」と述べる一方、ファンの行き過ぎた声援やマナーの悪さに当惑することもあるという。

ファッション誌「allure」や「ceci」でモデルをつとめたことがある


技術・演技

ISUジャッジングシステムのもとで行われた主要国際競技会において、女子シングル史上初めて200点台を出した選手(2009年世界選手権)ショートプログラムフリースケーティングのパーソナルベストも、それぞれ歴代最高得点。長野オリンピックミシェル・クワンの演技に感動して表現力の強化に力を注いできた。

ジャンプには定評があり、技の出来栄えを評価するGOEでは大きな加点を得ることが多い。特に、3回転フリップ-3回転トウーループのコンビネーションジャンプでは男子選手にも負けないと言われている。シン・ヒェスック元コーチによると、3回転フリップは初めての試みでいきなり着氷したという。スピンやスパイラルシークエンス、ステップではレベルの取りこぼしが少ない。

一方、ループは苦手としており、プログラムから外すこともしばしばである。聯合ニュースが報じたところによれば、2010年バンクーバーオリンピックまで3回転ループをプログラムに入れない意向であるという。

フリップは2008年中国杯で誤ったエッジからの踏み切りであると判定された。この判定に対し、ブライアン・オーサーコーチは「安藤美姫こそ減点対象だ」などと抗議した。


二重契約訴訟

「インターナショナルマーチャンダイジング」 (インターナショナル・マネジメント・グループ系列、以下「IM」と記す) と2006年5月から2010年末に渡る独占マネジメント契約を結んでいたが、IM側の支援が不誠実として2007年4月に契約を解除し、直後に韓国のエージェント会社「IBスポーツ」と契約した。これに対し、IMは「IBスポーツが二重契約を締結したため損害を被った」として、IBスポーツを相手どって20億ウォンの損害賠償を求める訴訟を起こした。2008年5月、ソウル中央地方裁判所はIMの請求を退ける判決を下した。

現在のCM契約数は10本を超え、2009年の年収は120億ウォンと見込まれている


「練習を妨害された」発言

2009年3月14日、韓国SBSのインタビューで「競争相手の選手に試合直前の練習を妨害された」と話した。中央日報朝鮮日報の記事によれば、金は「これまで大会のたび、試合直前の公式練習中にジャンプの練習をすると進路を遮られた。特に今回の四大陸選手権では少しひどいという印象を受けた。そこまでしなければいけないのか思うことが多かった。しかしそれに負けたくないし、それに負ければ競技にも少し支障が出るかもしれないので、対処方法を考えている」などと述べた。金は具体名を挙げていないが、韓国メディアは日本の選手達が金の練習を妨害したと断定的に報じており、韓国では日本選手バッシングが過熱状態になっている。

この騒動に関して、識者は「練習はジャッジの見ている前でするから妨害するメリットは全く無い。世界選手権が近いのでキム・ヨナ選手も気が立っていたのでしょう」(渡部絵美)、「ぶつかること自体しょっちゅう。日本相手だから韓国メディアが過剰反応している」(伊藤みどり)、「練習では狭いリンクに6人もの選手がいるのだから試合前の6分間練習のうちただの1分も自分だけのものにすることは出来ない」(ジョアニー・ロシェット)とコメントしている。

日本スケート連盟は、ファンなどから「なぜ(韓国の報道等に)抗議しないのか」などの抗議が殺到したことを受け、妨害の事実を否定するとともに、金側から抗議を受けたことや国際スケート連盟から警告を受けたこともないと表明。さらに、大韓スケート連盟に報道の経緯説明を求める文書を送付し、国際スケート連盟にも報道への見解を問う文書を提出した。また、浅田真央も記者の質問に答え、故意の妨害を否定した。大韓スケート連盟は日本スケート連盟の求めに対し、「特定の国や選手を名指ししたのではなく、一般的に選手が遭遇する状況を共有しようとした」「われわれはこのような誤解が再び起きないことを望む」と回答した。

金は世界選手権のためにロサンゼルス入りした後、韓国メディアの取材に答えて「試合では全選手が競争するだけに、そうしたことが起こり得る。インタビューで特定の選手について言及したことはない。事がおかしな形で膨らんでしまったが、気を使わない」と述べた。同日の日本メディアの取材では、マネジメント会社が「競技に関する質問のみ」と通達し、その場に緊張感が漂ったという。

世界選手権終了後、金に上記のインタビューをしたSBSのリポーターは、東京スポーツの取材に対し「『日本人に〜』というのはSBS側が付け加えたもの」と答え、今回の報道は「韓国ファンの反日感情を煽り、対決ムードを盛り上げようとしただけ」と述べた。なお、SBSは未だに訂正をしていない。


経歴
1996年にスケートを始めた。2002年トリグラフトロフィーノービスクラスで国際競技会初優勝[54]。2003年韓国選手権では史上最年少(12歳)での優勝を果たした。2004-2005シーズンよりジュニアクラスに上がり、ISUジュニアグランプリに参戦する。JGPブダペストで優勝、JGPハルビンで2位となる。JGPファイナルと世界ジュニア選手権では、いずれも浅田真央に次ぐ2位となる。2005-2006シーズン、JGPスケートスロバキアJGPソフィア杯、JGPファイナルと勝ち続け、世界ジュニア選手権では浅田真央を抑えて優勝。

2006-2007シーズンからはISUグランプリシリーズに参戦。2戦目のエリック・ボンパール杯でGPシリーズ初優勝を飾り、GPファイナルショートプログラム3位から逆転して初出場初優勝を果たした。しかし12月初旬から軽度の椎間板ヘルニアによる腰痛が酷くなり、国内選手権や冬季アジア大会を欠場した。世界選手権では、SPでISU歴代最高得点を記録して首位に立った。しかし、フリースケーティングでは得点が伸びず、総合順位は3位となった。2007年初めからカナダに拠点を移し、現在に至るまでブライアン・オーサーに師事している。オーサーのほか、デヴィッド・ウィルソンを振付師に、トレイシー・ウィルソンをスケーティングと表現力のコーチとするチームを組んでいる。なお、オーサーにとっては金妍兒がコーチ転向後初の教え子である。オフシーズンには弱点である体力を育てるため体力トレーニングに多くの時間を割いたという。

2007-2008シーズン、GPシリーズ中国杯、ロシア杯と2連勝。ロシア杯のフリーではISU歴代世界最高得点を記録した。GPファイナルでも2連覇を達成した。韓国で開催される四大陸選手権は怪我のため欠場した。世界選手権では、仙腸関節負傷のため事前に満足な練習ができず、痛み止めを打ちながらの出場だったが、SPの出遅れたをフリーで追い上げる形で2年連続の3位に入った。

2008-2009シーズン、GPシリーズスケートアメリカ中国杯は他の出場選手に大差をつけて連勝した。韓国で開催されたGPファイナルでは2位に終わったが、会場には多くのファンが押し寄せ、演技後には数え切れないほどのプレゼントがリンクに投げ込まれた。四大陸選手権はSPでISU歴代最高得点を更新し、そのまま逃げ切って初優勝。世界選手権で再びSPのISU歴代最高得点を更新。フリーも今季初めて130点台を出し、総合得点は史上初めて200点の大台を越して念願の初優勝。重圧を押しのけての世界王座獲得に、表彰台では感涙で頬を濡らした。
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